一汁三菜

食べるというのは、本来、いのちをいただくということなんだよなぁと自然と思い出させてくれる味。さばしょうゆ干し定食。千二百円也。ツヤツヤのピンと立ったお米。キラキラしていて、命そのもの。こんなに美味しいお米はなかなか食べられない。焼魚。丁寧に直火で焼かれた魚。口に含むと、魚のあぶらがジュワと広がり、香りもする。思わず目を閉じて、味わいたくなる。他の感覚を遮断して、味に集中したくなる。お味噌汁。出汁と塩加減と温度のバランスが完璧。五臓六腑に沁み渡る。おしんこ。しなっとしておらず、シャキシャキ、塩加減が抜群。焼魚の油の合間に、おしんこを食べて、口の中をリセットして、何度も味わう。副菜もどれもこれも、本当においしい。こういう食事をすると、日本人に生まれてよかったと心底感じる。

カウンターだけの静かなお店。みな、静かに黙々と食べる。ガツガツ食べる人は見たことがない。お店の人も、お客も、作る人も食べる人も、皆が淡々としている。冷たいわけではなく、ただ、皆が、食に集中している感じなのだ。店主の目はとても澄んでいる。その澄んだ気がお店全体に行き渡っていて、米粒ひと粒ににも、すべての食べものにも気が通っている。食べ終わると、自然と拝みたくなる。ごちそうさまでした、いのちをいただきましたと、祈りたくなる。

わたしは、音楽を生業としいて、音を提供しているけれど、こんな風に、来た人が、清々しくなれるようなところになれるとよいなぁと感じた。指揮の山田和樹さんが、あるリハーサルで、「こうして集まって音楽をするとき、その時間の前とあとでは、みなさん一人一人が輝いて帰っていけるようにしたい」と、言ってらしたことがいつも胸のどこかに残っている。

感情に左右されすぎず、悲嘆せず、悲観せず、淡々と続け、清々しさをもつことは、何をするにも大切だなぁと、感じた。

最後は静かに祈りたくなる、手を合わせたくなる。生きているというのは、命というのは、私が考えるよりもずっともっと淡々としていて、静かで穏やかなのかもしれない。

食べたあとの帰り道は、不思議なほど満たされて、新緑がやけに青く眩しく見えた。こどものときは、こんなふうに全てが鮮やかでキラキラしていたのだろうなと、なんだか懐かしくなった。いろんなことを思いながら、静かに歩いた。夫とわたしを巡り合わせてくれたお寺に少し寄った。いろんなことが懐かしい。ここで出会って、二人の可愛い子供たちにも出会うことができた。入口は開いていなかったけれど、静かに拝んだ。

死ぬときは、きっと、いろんなことがすべて懐かしくて、いろんなことがすべてがひたすらありがたく感じるのだろうなぁと思った。

親友が昔ポッと話してくれたことを思い出す。

今日の言葉*

「植物をみていると、みんな千切れたり破れたりしながらも、お構いなく美しいし 哀しみやら、傷付いたことは、別に愛やら何やら、他の何かで埋めなくてもいいものなんだって思ったよ。 葉っぱが千切れました。あ、そうですか。はい、生きてます。 みたいな、そんな気分だったの。 みんな何かしら千切れたり欠けたりしていて、そうゆう人が出会って、先に進んで、生きていくのだなぁ。と、思うよ。」


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