夏のおわりの思い出

今日から9月だ。

今年の夏は、あまりに暑かった。外に出ると照りつける太陽と、容赦なく襲いかかる湿気に、息を吐いて吸って、歩くだけでフゥフゥ言った。自主企画コンサートが二つあり、その準備に追われ、風邪も引いて寝込み、夏なのにどこにも行けず、夏が終わりそうになっていた。

伊豆の下田で小林道夫先生の講習会があるのを聞いていた。折しも台風が近づいていたが、この夏の終わりにウズウズしていた私は、たまらなくなって、15分で荷造りをして、電車に乗った。

下田から少し離れた今井浜海岸に宿をとった。温泉と食事が充実しているようだった。ホクホクした。フタをあけてみると、朝食では、まわりはみんな家族連れで、なんだかすこし恥ずかしかったけれど、台風の雨風吹き荒ぶ豪快な天候を眺めながら食べる朝食は、格別だった。温泉も気持ちよく、大満足だった。

リハーサルを聞いた。

道夫先生の音、みずみずしい。お声、美しい。お言葉、宝物。とにかく音楽が生き物として動かなくなった瞬間、先生はピタリと指揮をやめられる気がした。縦に合わせに行った瞬間、指揮棒がとまった。何しろフレーズが長い。見えている景色がちがう。ミクロとマクロの視点、その融合。音楽への喜び。敬虔な気持ち。祈り。ただ美しいだけではだめだ。物語に出てくる人間の業の深さ、毒のようなものが、歌詞のちょっとした発音の違いで息づいてくる。ちょっとした違いが大違いなのだ。そこに気付けるか気付けないか。物語が、どれくらい身体に染みているか?音楽をする土台はどれくらいできているか?音の声に耳を澄ましているか?そのすべてが、血となり肉となり、音としてその瞬間を生きているか?

たくさんの巨匠たちとアンサンブルをされてきた先生の音とことばは、不思議なほど、身体に入ってくる。勉強というのはいつでもどこでもできて、そして終わりがない。録音からも、書物からも、残されたものから、たくさん読みとることができる。しかし、人から人へ、生きている者同士が、その場と時間を共有することでしか伝えられないものがあるのだと改めて感じた。そして、その尊さもヒシヒシと感じた。

下田、行ってよかった。
あ〜〜わたしの夏が終わったな〜。
(というか、そろそろ
涼しくなっておくれ!)

今日の言葉*

“pになったら遅くなるのは素人。
pになったら後ろ髪引かれず、
前髪を引っ張るんです”

小林道夫先生


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