音楽の大きな川

音語りのリハーサル。

学生たち、みるみる変わっていく。楽しい。モーツァルトは細かいアーティキュレーションをしっかりつけていくと途端に表情が出てくる。あちらにどう聞こえるか?そのためにこちらではどう弾くのか?手元の感覚と遠くの音。抑制をきかせるところと、あふれでるところ。音楽との距離。ひとたび音楽がはじまったら、そのエネルギーをとめない。どうしても、弾こうとする瞬間にウッととめてしまう。これはいつからか身についてしまった悪い癖。恐れがあるのだろう。音楽の泉をとめてはもったいない。村上さんは音楽の大きな川がドーっと流れていてそこにふれると言った。あれと同じことだ。

能楽師の安田登先生が、プロアマ問わずみんなでわいわい舞台やってるのみて、刺激をうけて、学生とやってみようと試みている。とりあえずやってみるということが、まず大切。わたし自身も、学生から瑞々しい感性を感じて刺激をうける。素人と玄人の話を思い出す。自分も真っ白な糸を引き出される感じがする。

音楽に真摯に向かうとき、上手い下手も、経験年数も年齢も役職も、先生と生徒も関係なく、だれもが対等にそこにいる。同じ喜びのなかに、同じ風のなかに、同じ躍動のなかにいる。音楽というのは時そのものだし、場そのものだし、存在そのものとも言えると思う。だれかと闘うために、なにかを勝ちとるために、音楽に向かっているのなら、手を止めた方がよい。どこを向いているか、どこに身を置くのか、心を置くのか。何のために音楽をやっているのか、音楽の大きな川にふれているか。音楽そのものになるということ。

学生たちとリハーサルをしていると、まるで昔の自分とリハーサルしているような感覚になる瞬間がある。あぁ、私もそうだったな、頭では分かるけど、体でできなくて、すごく悔しかったな。そんな風に懐かしくもなり、目が細くなる。師匠から教えてもらったことを若い世代に伝えられるのはとても嬉しいことだなぁ。南無南無。
今日の言葉*

食いたければ食い、
寝たければ寝る、
怒るときは一生懸命怒り、
泣く時は絶体絶命に泣く

夏目漱石


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