かなしみと喜びと祝福と

その人が、自分自身の命や人生を祝福しているか、喜びとともに毎日を生きているかが、音になるんだなぁと、最近よく感じる。はて、わたしはどうだろう。

ひと昔前は、喜びよりもかなしみと共に生きていた気がする。おセンチになるわけではないのだけれど、かなしみという感情が単に好きだったのかもしれない。好きというとおかしいけれど、かなしんでいる自分を愛しんでいるというべきか、まあとにかく少々おかしかった。かなしみには、二つの字がある。哀しみと、悲しみ。

字を紐解くと、哀は、衣の袖で、涙をかくしヒタヒタとかなしむ様子、悲は、羽根が裂けるようなかなしみ…だったと思う(定かではないので調べ直さなければ)。涙にも二つ種類がある。ツーと頬を静かに流れる涙と、ワー!とあふれるような涙だ。晴れている日に死んだ誰かのことを思い出して、ツーと流れる涙もあれば、目の前の人にわかってもらえなくてワー!と嘆く涙もある。哀しみは、時間的にも距離的にもすこし遠いところから訪れ、悲しみは、切って噴き出すようなマグマのような切迫性がある。モーツァルトを弾いていると、哀しみが滲み出ていると感じることが多い。そこにわたしは生きていることの美しさを感じていたのかもしれない。しかし、モーツァルトは、コインの裏表のようき、その哀しみをひっくり返すと、すぐそこに喜びが隣り合わせていることも教えてくれる。それがまた魅力なのだ。

「怒りのふたを開けると、その底には、かなしみがある」と言ったのは誰だったか。怒りという感情は、否定されるべきものでなく、心の奥に静かに流れる哀しみの存在を気づかせてくれる火だ。心はたくさんの感情を内包している水のようなもの。寒くなりすぎると凝り固まり、温かくなると溶け出す。楽譜という、いわば冷凍された「時」を解凍して料理するにはなによりも火が必要だ。生きているということそのもの、命そのものの温度が必要だ。喜怒哀楽、いろんな心が蠢くことが必要だ。

ここ何年かで、2度の出産を経験した。一人目がお腹にいるときは、「生きることは喜びなんだよー」というメッセージのようなものをひしひしと感じていた。不思議な感覚だった。二人目は何のメッセージも感じなかったが、一人目のときにはないゆったりとした穏やさが体を流れていた。1人目と2人目という違いがあるにしても、入っている人間で、こんなにも性質が違うものかと驚いた。なかなか本格的な陣痛が来ずに、帝王切開になると決まった日の朝は、それまで感じていた不安やおそれがどこかに飛んでゆき、木々も空も、万物がもうすぐ生まれ出る命を祝福しているのを感じた。どちらも不思議な感覚だった。

かなしみにひたるのが好きだったわたしのところへ、喜びと祝福が飛びこんできた。毎日翻弄されてばかりだが、ワンワン泣いて、喜んで、命を燃やし、生きているということをこれほど目の前で体現してくれているこどもたちは、眩しくて、愛おしい。こどものとき、めいいっぱい遊んで、バタンキューと寝た記憶は、誰にでもあるだろう。懐かしい匂い。あんな風に大人も毎日をめいいっぱい味わえたらよいのに。今日もめいいっぱい命を燃やしたかい?と、目を閉じる。

今日の言葉*

好きなものイチゴ珈琲花美人

懐手して宇宙見物

(寺田寅彦)


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