いろんな表情をするようになってきて、日々観察したり話しかけるのが楽しい。赤ちゃんなのだけど、おじいちゃんみたいに思えるときもあるのは何故だろう。しかも、授乳後は、「ちょっと呑みすぎてしまったおじいちゃん」感がすごい。右のおっぱいから、左のおっぱいに移るときは、「一次会はこのへんでお開きにいたしまーす。二次会の会場はこちらになりますー。ご希望の方はどうぞー」という、脳内テロップが毎度流れる。呑み終わった赤ちゃんの何ともしあわせそうな顔といったら…。ゲップを出させてあげるために、背中をトントンするときも、「ウィ…ふぅ…わるいねぇ…ウィッ…呑んじまったなぁ。おっぱい呑んでも呑まれるなってな。ウィ…」というセリフが脳内にコダマする。吐き戻しなんていうのもよくあることだけど、これもほぼ酔っ払いの介助と同じである。「吐いちゃったねー。ちょっと呑みすぎたねー。楽になるねー。お洋服変えるからねー」なんて言いながら、ささっと済ます。
人間、産まれ落ちたときは、他の動物とちがって、ひとりでは何もできない。命をつなぐことができない。どうしても誰かの手助けが必要となる。でも、神様がそのように人間を運命づけたのは偶然ではないように、私には思える。生老病死の長い道のなかで、はじめと終わりは、かならず誰かのお世話になり、生きて死んでゆく。助け合わなくては生きていけないのだということを身をもって知るのだ。大人になり、日々を生きていると、生まれたばかりの自分が、こんなにも誰かのお世話になっていたことなど頭から抜け落ちているが、誰しもが、このヒヨヒヨとした震えるような命の塊だったのだ。簡単にいうと「困ったときはおたがいさま」ということになるか知らん。自助だの公助だのと騒がれる世の中だからこそ、命の始まりのことを、どこかでいつも思い出そうと思う。
今日の音楽*
今日の言葉*
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う」
“喜怒哀楽の深奥には感情の種子のような「究極の感情」があります。それを「中」といいます。人はこの種子である「中」からその場そのときに応じて〈ほとんどが無意識で〉「喜怒哀楽」を出していきます”
安田登「役に立つ古典」