ヴェルフリ


東京駅のなかのステーションギャラリーで行われているヴェルフリ展。アウトサイダーアートを研究している友人が「絶対に行くべき!ものすごくよかった」と絶賛していた。見に行きたいけれど、もうすぐ終わってしまう!行けるかな(>_<) ご興味のある方いらしたら、ぜひ!

http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201704_adolfwolfli.html
アールブリュットは、なぜかパリでみた。しかも、日本の作品を。素晴らしかった!芸術とはなにかと考えさせられた。ひとの目を全く気にしない、むき出しの純粋なエネルギーに、心を奪われた。こわささえ感じた。あの力は、あのとき感じたのは、命そのもののような気がする。赤ちゃんが生まれたときに、オギャーと泣くようなそんな全身を突き上げるような叫びのような力。日本のアウトサイダーアートと、ヨーロッパのものは質がちがうかもしれない。ヴェルフリももっと抑圧された力のようだ。観たい。。
岐阜県にあるやまなみ工房。本当に素晴らしいところのよう!いつか行ってみたい。

http://a-yamanami.jp/
「障がい」や「病」と、言われるもの、そうやって言葉やシステムで私たちが区別しているもの、境をつけているあらゆるものたちは、もっとよい意味でとけあえるのではないかと感じる。だって誰でも大なり小なり何かしらの問題を抱えて生きているのだし。
認知症のひとが働く「注文を間違える料理店」というのができたと聞いた。なんて素敵なんでしょう。そういう発想で何かしたいわ。そのお店いきたいわー。そして、私も普通に間違えそう。
“アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの芸術家として世界的に高く評価されながらも、日本ではほとんど知られていないアドルフ・ヴェルフリ[1864-1930]の、日本における初めての大規模な個展です。

スイスのベルン近郊に生まれ、孤独で悲惨な幼少期を送ったヴェルフリが絵を描き始めたのは、罪を犯し、精神科病院に収容されて数年後の35歳のとき。以後、病室で一心不乱に描き続け、生涯に描いた数は25,000ページ。余白を残さず、絵と文字と音符で埋め尽くされた作品はどれも、既存の芸術や美術教育の影響を受けることなく生み出された他に類をみない表現力と、奇想天外な物語性、そして音楽への情熱にあふれています。自分の不幸な生い立ちを魅惑的な冒険記に書き換え、理想の王国を築いて世界征服をたくらみ、音楽監督として作曲に没頭したヴェルフリ。彼が描いたのは空想の世界の出来事ではなく、すべて真実と疑わない自らの姿を投影したものでした。

ヴェルフリの初期から晩年までの74点を厳選した本展は、アール・ブリュットの源流をたどる待望の機会です。緻密にして壮大、エキセントリックにしてファンタスティックな創造力を是非その目で確かめて下さい。
展示構成

1章 初期のドローイング/楽譜(1904-1907)

2章 揺りかごから墓場まで(1908-1912)

3章 地理と代数の書(1912-1916)

4章 歌と舞曲の書(1917-1922)/歌と行進のアルバム(1924-1928)

5章 葬送行進曲(1928-1930)

6章 ブロートクンスト―日々の糧のための作品(1916-1930)
アドルフ・ヴェルフリ 略歴

アドルフ・ヴェルフリ[Adolf Wölfli]は1864年、スイス、ベルン郊外の貧しい家庭に、7人兄弟の末っ子として生まれました。酒癖の悪い父は家庭を顧みず、母は病弱で、子どもたちの養育は里子奉公制度に委ねられました。ヴェルフリは里親の元を転々とし、厳しい労働を強いられたり、折檻を受けるなどし、学校に通うこともままなりませんでした。そして11歳になるまでに両親を亡くします。いくつかの恋愛も経験しますが、うまくいかず、孤独と生活苦に苛まれる日々を送ります。数回にわたる犯罪の末、31歳のときに統合失調症と診断され、精神科病院に収容されました。収容から4年後の1899年、鉛筆と新聞用紙を与えられたヴェルフリは絵を描き始めます。最初に取り組んだ空想の世界の自伝的シリーズ『揺りかごから墓場まで』(1908-1912)では、4年間で2,970頁にわたる物語を紡ぎました。次に着手した『地理と代数の書』(1912-1916)では理想の王国を築く方法を詳細に説き、『歌と舞曲の書』(1917-1922)では独創的な音楽づくりに没頭。自らのレクイエムとして描いた『葬送行進曲』(1928-1930)は、2年間で16冊、8,404頁におよびますが、1930年、腸の病により死去。亡くなる4日前、涙を流しながらもう絵を描けないことを嘆き、『葬送行進曲』は未完のままに終わりました。死後から15年たった1945年、フランスの画家ジャン・デュビュッフェによってアール・ブリュットの芸術家として位置づけられ、広くその存在が知られるようになりました。”


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