◉練習と本番、型と器


「レッスン録音するのはよいけれど、録音してるからあとで聞けばよいや〜〜という気持ちがどこかにあると身にならないよ。その場でその瞬間に感じられることを全身をアンテナにしてうけとらないと。」

…と今自分がレッスンしていて、学生時代に言われたことを、思い出す😅そして同じことを言ったりして💁

レッスンを録音するのもよいけれど、練習を録音して聞いてみると、すごくよい。。。たまに今もやるけれど、お皿洗いながら聞いて、自分の先生になったつもりで、おいおいそこー👀とツッコミ入れる。

能楽師の安田登さんが「練習と本番は分けない。練習って…よく考えると変でしょう?? たとえば森で熊に遭遇して、『あ、ちょっと待ってくださいね。練習してくるんで』なんて言えないですよね」と話されていて、ホントだわ😳と思った

先日その話を生徒さんにしたら、レッスンでその瞬間からすごく変わった。本番モードでレッスン受けてくれると全然ちがう😳

お能の世界では、リハーサルはほとんどないというのも衝撃だった。それどころか、同じ演目でも、それぞれ流派が違うから、台本も違うという😱 場合によっては?相手が何か言ったら、こちらも言うという感じらしい。いろいろビックリだよ😧

安田先生のお師匠さまはめちゃくちゃ怖かったらしくて、「その手はそれじゃー低い!」と言われて、少し上げると、思い切り叩かれるらしい。「意味わからないでしょ」と笑ってたけど、ほんと意味わからない😨そういう理不尽な?ことの連続らしいけれど、でも、おそらく、先生と生徒が一対一でそこにいて、ものすごい気迫を感じながら意味わからず怒られ続けるというなかで、なにかをうけとり、身体が変容していくのかもしれない。 …とはいえ私はそういうレッスン耐えられなそうだけど…

あと、とても驚いたのが、お能や狂言では、作品を「解釈」したり「表現」してはならないということ。かなしい役のときに、少しでもかなしい気持ちになったのが滲むと、またまた烈火のごとく怒られて「それじゃ、芝居だ!」と言われたという(!) すべては「型」。たとえば「怒り」という型では、身体を型通りに構えて「ううううう〜〜れ!はらたちやはらたちや!!」と唸り、ドンドン!と床を思い切り蹴る。そしてそれが終わったら、スッともどるのがとても大切で、それをやっているときも個人の感情を入れてはいけないという。

むむむぅ😳 興味深い。西洋音楽では、あくまで楽譜を深く読みとり、音がどう動きたいのか感じ、心を開き体を動かし、熱(感情)を加えていくというプロセスで、料理に似てるなあといつも思うのだけれど。でも、最終的に、誰が演奏してるとか、誰が演じているとかは、聞き手がすっかり忘れてれてその世界に浸れる、吸い込まれるというのがベストなのだから、「器になる」という意味では、同じだろうなぁ。お能はでてくるのはほぼみんな霊だし😨、神事に近いから、憑依するための器という要素もかなりあるのだと感じる。舞にも意味は全くないし、意味を探らないでほしいと仰っていた。

そんなわけで、日々レッスンしていて、いろいろ思い出す今日この頃だけれど、

音楽そして人生の師匠に

「トイレのドアを静かに閉められんやつは、フレーズもきれいに終われないんじゃ!!」と

烈火のごとく怒られたのも思い出す😱それ以来、すべてのドアを細心の注意でそっと閉めるようになった。フレーズの終わりも気をつけています。ありがとうございます。。


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