若松英輔先生のお話を聞きに、八重洲ブックセンターへ。寒くて、雨も激しくて帰ろうかとすこし躊躇したが、やはり行ってよかった。詩人 石垣りんさんについてのお話だった。どのことばも、どのお話も、静かに、厳しく、深く、やさしく響いた。響くというより、骨と血に沁みてきた。切れば赤く滲むような、そういう血の通ったことばをこれほど訥々と語られる方を、わたしは知らない。同時代に生きているということをとてもしあわせに感ずる。わたしは、あのように切れば血の滲むような音を出せているのだろうか。それは切実なことばだ。
読むということと書くということは、聞くということと演奏することに通じ、そして、読み手と書き手は、聞き手と弾き手の関係性に似ているなと、ひとり考えた。「真の書き手は、読む人に書かせることを強烈に促すものです。詩を書くということにおいて、学力や学歴などは全く関係がない。ぜひみなさんも詩を書いてみてください」
本当に素晴らしい演奏家は、聞き手に「すごさ」を与えるのではなく、音楽を自分でも奏でてみたいと思わせてしまうそういう力があるように思う。夏に音語りでゲストでお迎えした村上淳一郎さんは、まさにそのような演奏家だ。音楽と自分と聴衆が見事にとけあっている。彼は、人前で弾くのをこわがる若者たちに「自己表現のために音楽を利用するのではなく、音楽を表現するために自己を最大限に活用しなければならない」と何度も話した。等身大でよいのだ。
茨木のり子が、石垣りんの読み手であったことにふれ、詩を書く上で、本来たったひとりの読者がいればいいのだと話されていた。わたしたち演奏家にとっても、そうなのだと感じた。
サインをいただいたときに、すこしお話して、「元気ですか?」と聞かれたので「元気です。でも最近、お世話になっていた人が急になくなって…」と言ったら、「ひとは亡くなったときから、距離がぐっとちかくなるものなのです。永遠の時のなかで、新たな関係がはじまるのです。かなしくて、こちらが話してしまうのではなく、あちらの声が聞こえるように、沈黙が必要なのです。これは一見、矛盾しているようですが、そうなのですよ。今はわからなくても、すこし心にとめておいてくださいね」と、静かに話してくださり、ポロポロ泣いてしまった。まだわたしはずいぶんとかなしいのだなと気づいた。仰るように、こちらから語りかけるのではなく、あちらからの声を聞けるように、静かな時を持とうと思った。世の中に流れてゆく「時間」と、わたしやあなたのなかにある「時」についても、もっと感じてみようと思った。考えてみると、音楽というのはまさにその「時」のなかを生きているのだ。そのことは知っていた。そのことを感じるためにわたしは音楽を続けているのかもしれない。
「ひとのことなんてどうだっていいじゃないですか。ひとのことはひとが勝手にやる。我々は、自分のことよりも、ひとのことを知ってるような時代です。そんな暇があったら、もっとほんとうの自分を知らなくてはならない。いつ何があるかなんてわからないんです。若い人も年老いた人も、ほんとうの自分をなるべくはやく知らなければならないと。それは明日ではなく、今日の方がいいのです。」
本当にそう思った。
石垣りんさんのお声、お話。想像以上にあたたかく、チャーミングで、そして、端々に独特の厳しさがある。何度も聞きたくなる。何度も聞くことになるだろう。途中から朗読に音がついてくる。なんて素敵なの。わたしもいつかこういうことやりたいな。ことばと音の邂逅。
◆小説丸
若松英輔インタビュー
素晴らしいです。。
https://www.shosetsu-maru.com/hontowatashi/1-1
https://www.shosetsu-maru.com/hontowatashi/1-2
https://www.shosetsu-maru.com/hontowatashi/1-3
今日は伺えて本当によかった。
若松先生ありがとうございました。
今日の言葉*
「愛するものと死別する。それは永遠の別離ではなく、むしろ、けっして消え去ることのない永遠の世界での新しき邂逅の幕開けなのではないだろうか。」
若松英輔「種まく人」