この前。といっても、先月のこと。高校時代に淡い恋心を抱いていた人が突然夢に出てきた。親しくはなく、少し話すくらいだった。言葉数はそんなに多くなく、それほどオープンな性格でもなく、でもきちんと自分の世界があって、スラリとした、どこか静かな佇まいが好きだった。たしか陸上部にいた。足が速い人だった。クラスは違ったけれど、なにかの授業で一緒になった。夢のなかでも、あのときと同じ雰囲気で、ある程度の距離を保ったまま、わたしは彼の存在にすこしドキドキしていた。窓辺から外の景色をみる横顔が素敵だった。
目が覚めた。朝の6:30。となりには、小さいお手手があった。スースーと小さな吐息をもらして女の子がぐっすり眠っている。そのとなりには、娘に蹴られないようにと、頭を反対側に熟睡している夫がいる。そうだ、わたしは高校生のわたしではなく、いつの間にか40過ぎの大人になっていたのだ。
不思議な気持ちになりながら、起き上がり、子ども部屋に行って、娘の散らかしたおもちゃを黙々と片付けた。まだ夢のなかの、淡い恋心が身体に残っていた。それはとても純粋で混じり気のない水のような、薫りのようなものだった。ブロックや積み木を手にとりながら、もうすぐ消えてしまいそうな、その感覚の余韻を味わった。それは、夫と出会ったころにも感じたものだった。今にも壊れそうで、消えそうで、それでも会うたびに、どこからか湧いてくるその純粋なエネルギーに自分のこころをつなぎとめておきたかった。それは相手の持つエネルギーでもあり、相手を通して薄らと感じる自分のなかの秘めたエネルギーでもあった。人と人が出会うとき、自分のなかの新しい扉が少しずつ開く。特別な人と出会ったとき、その扉のスキマからは特別な光と薫りがしてくる。特別な扉は、いつもほんの少ししか開いていなくて、開けるのがこわくなる。一旦閉まってしまうと、消えてなくなってしまうかもしれない。でもそれは宝箱のように実は自分のなかにいつもあるのかもしれない。夫と出会ったころも、そうして、閉じかける扉を、勇気をもって開けにいったのだよなと思い出したら、ふと涙がポロポロ流れてきた。
夫とは、ここ数ヶ月ギクシャクしていた。大ゲンカもしたし、自分たちの関係が撓み、歪み、居心地の悪いものになっていくのを感じて息苦しくなっていた。お互いの存在を通して、お互いの悪しきものが引き出されて、映し出されいるような時期だった。苦しかった。そこからはどうしても抜けることができず、私は先の見えぬ螺旋階段をどんどん下っているような気持ちになった。たまにひとりになり、空を見上げた。星や月が光っていた。でもそれははるか遠くて、私のこころを照らすには充分ではなかった。毎日、世界から孤立しているような、ひとりぼっちのような気持ちに落ちることがあった。
夢のなかで、高校時代の彼は、爽やかで清々しかった。そこには忘れかけていた大切な何かがあった。夢が語りかけてきた。夢がわたしに思い出させようとしてくれていた。夫の笑顔を初めてみたときのことを思い出した。その笑顔がわたしは大好きで、その笑顔をずっとみていたいと思った。はじめて手をつないだときのことを思い出した。ドキドキしながら夜道を歩いた。ずっとつないでいたい、ずっと一緒に歩いていたいと思った。今のわたしたちは、笑顔になることもなく、手をつなぐこともなかった。笑顔を見たい、手をつなぎたい、一緒に歩いていきたいと思っていたのに、どうしてこんなことになっているんだろうと思ったら、ポロポロ涙が出て止まらなくなった。相手に求めるばかりで、わたしは笑顔でいること、相手を笑顔にさせることを忘れてしまっていた。おもちゃを片付ける手に涙がこぼれ落ちた。おもちゃで遊ぶ娘の姿が浮かんだ。愛する人、愛したい人に出会い、娘が産まれてきてくれたこと。なんてしあわせなことなんだろうとまた涙が出た。ひとしきり泣きじゃくった。ヒクヒク言うくらい泣きじゃくった。外から、散歩する犬の鳴き声がした。泣いて泣いて、ふと気づいたら、憑物がとれたように、なんだかスッキリとしていた。
デートをしようと夫に話した。小雨だったので、相合傘になって、腕をつかんだ。こんな風にふたりで歩くのはとても久しぶりだった。二人とも少し笑顔になっていた。特別な日だったので、奮発してウナギを食べに行った。やっぱりここのウナギが一番美味しいねと嬉しそうに話す夫を見て嬉しかった。少し歩くと、銭湯やら問屋さんが立ち並び面白い町だった。はじめて入った喫茶店も、レトロで雰囲気がとてもよくて、バナナジュースも珈琲もとっても美味しかった。他愛もない話をたくさんした。2人の時間がやわらかいものになるのを感じた。私は忘れていた時間を取り戻した。これからもふたりで歩いていきたいなと思った。
「月に一度はふたりの時間
週に一度はひとりの時間」
を持とうと決めた。子育てをしているとなかなか難しいけれど、これはとても大切な決まりなのだ。それぞれにとって、そして家族にとって、大切な時間なのだ。
この前も、今月のふたりの時間だった。近所にできた新しいカフェは、下町らしからぬ、澄ました顔をしていた。ほうじ茶ラテはとても美味しかった。夫はチョコレートドリンク。
今日の言葉*
君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の唄
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか柳が すすり泣く
花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも
髪に飾ろか 接吻(くちづけ)しよか
君が手折(たお)りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺(かんざんじ)
西条八十
今日の音楽*