ダリア

今日は、じいじとばあばが遊びに来る日。それなのに、すっかり寝坊をしてしまった。夫は夜遅くまで仕事していたのであろう。ぐっすりと寝込んでいる。寝ているところを起こすと一番機嫌が悪くなるので、静かに部屋を出る。急いで朝ごはんの準備をして、モグモグ食べさせて、散らかり放題の部屋を超特急で片付け、掃除する。1歳8ヶ月になる娘は、ここ最近、甘えモードで掃除していると意識が逸れているのがわかって「ママーママー」と泣きながらこっちへ向いてコールがすごい。「ちょっと待ってーママ掃除しているから。」そんなことを言ってもわかりはしない。こどもにとっては、「今」しかない。過去と未来が繋がっていると言うのも確かに大人の妄想かも知れない。本当はこの世には純粋な「今」しかなくて、それを過去と現在と未来と言う風に関連づけているだけなのかも知れない。実際そうだ。ちょうど、映画のフィルムやパラパラ漫画のように。そんなことを考えながら、娘のママーー!の叫び声を聴きながら掃除機をかけ終わった。やればできるではないかっ。わたしは元々、ギリギリまでやる気が起きなくて(脳内ではやっているつもりスイッチは入っている)、起動してからは自分で驚くほど早い。

まだじいじとばあばが来るまでには時間がありそうだ。何かが足りない!お花だ。お花を買いに行こう。娘をベビーカーに乗せて、歩き出す。思いのほか気持ちのよいお天気。そよ風にたなびく娘の髪の毛が揺れる。足を半分出して、上半身を前に無理やり出して、娘は、世界が自分に飛び込んで来るのを楽しんでいるように見えてくる。不意に、「この子は、一体誰だっけ??」とたまに不思議な気持ちになることがある。自分の娘であることにはもちろん変わりないのだが、出産した瞬間に感じた、あの「この子がおなかに入っていたの?わたしから出てきたの?」という神妙な気持ちのカケラが、どこかでずっと心に、魚の小骨のように引っかかっている。

あなたはどこから来たの?

自分は小さいころ、割と周りの大人の目を気にする女の子だった。どこかいつも本心で生きていなかったのではないか?と今振り返ると感じるのだ。もしもそのときの自分に会えるのなら「思ったことを口にしていいんだよ。人のことは気にしないで、自分の感じるままに生きていいんだよ」とやさしく話しかけて、ギュッと抱きしめるだろう。だからこそ、自分の子どもとは、いち人間同士として、いち生きる仲間として、ベッタリしすぎず、少し距離を置きながら、愛情はたっぷり育てて行きたいなと決めていた。そして、生まれて来た子は、そんな親の心配はよそに、のびのびと動き回っている。そもそも心配なんて必要なかったのかも知れない。子供が育てやすい育てにくいと言うのは、本当にその子の持って生まれたものが大きいように思う。外向的だったり内向的だったり。運動が好きだったり、絵を描くのが好きだったり。よく食べたり、食べなかったり。みんなみんな本当に違うもんだ。出てきたものを対処するしかない。笑。逆に、彼らが持っている力の邪魔をしないようにするのが大人の仕事なのかも知れない。そして大人は自らの生き様を見せること。親の背中を、親の一挙一動を、びっくりするほどよく見ているのだ、子供は。だからこそ、わたしもわたしの人生を味わって毎日を楽しもうと感じる。シンプルだけれど、とにかく自分がご機嫌であること。そうしたらきっと色々うまくいく。

お花屋さんに着いた。いろんなお花がある。「きれいだねー。どれがイイ?」「これー」「これー」と、適当に指を差し放題の娘。笑。お母ちゃんが、吟味します。一番高いところに、赤いお花があった。目を引いた。これにしよう!「これ、可愛いですよね。ダリアなんですけど、小さめで。」とお店の人が包んでくれた。お花屋さんを出ると、いつもルンルンと足取りが軽くなる。新しい小さな命を手に、街を歩く。「ほら、ママこれにしたよ。」「キレー」と娘がつぶやく。

公園で少し遊ぶことにした。ベビーカーを降りた娘。最近は忙しくてゆっくり一緒に散歩することもできていなかった。いつの間に君はそんなに早く歩けるようになったんだい?両手を上手に揺さぶって、全身で走り出す。小さい子が駆ける姿は、風そのものみたいに見える瞬間がある。何ものにも囚われていない。なんて美しいのだろう。なんだか眩しくて、やっぱりお母ちゃんは、「この子は一体誰だっけ?」とまた思ってしまった。それくらい、一つの完全な独立した人間が目の前に生きて、動いている。出産前は、産んだらそこからママである感覚が芽生えると思い込んでいたけれど、実際は、少しずつ少しずつ水が岩に染み込むようにママになっていくのかもしれない。「ママーーー!」と何度何度も言われて、抱っこをせがまれて、抱きしめて。こんなに大好きなのに、いつか手から離れるんだと思うと、それだけで涙が滲んでしまう。でも、君が、君と言う存在がこの世に現れてから、長生きしたいと思うようになったよ。君の育っていく姿をなるべく長く見たいから。いつもありがとう。

じいじとばあばが来た。買ってきた井泉のお弁当をみんなでおいしいおいしいと言って食べた。本当にここのとんかつは柔らかくておいしいのだ。食卓にはダリアが嬉しそうに開いている。あまちゃんにも名物カツサンドを一口あげたら、目を丸くして美味しそうに食べた。もうこれはいつか有名になったら「1さい8か月にして、井泉のカツサンドを食べる」とプロフィールに書くしかない。

じいじは少し遠くに住んでいるから、3か月の時に会って以来だった。楽しそうに遊んでもらう後ろ姿が忘れられない。嬉しいね。こうしてみんなが元気に会える日常がどれだけ幸せなことか。幸せって木漏れ日のようなものだな。

今日の日よ、万歳。一日一生。

今日の音楽*

今日の言葉* 人と音が別々でなく、音の一部であるときにはじめて、その美しさが感じられるのである。瞑想とはいかなる意志的行為または願望の働きをも交えることなく、あるいはまだ味わったことのない物事の快楽を求めたりすることなく、そのような分離に終止符を打つことである(クリシュナムルティ)


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: