安田登先生の寺子屋で、若松英輔さんのお話を
拝聴してきた。素晴らしかったなぁ。。。
身体の奥からことばが
次々と発せられるのを身近で感じて震えた。
切実に、身を切るようにして、
ことばの先にあるものに手をのばすようにして、
ご自分のことばを持たれた方なのだろうな。
ひとつひとつのことばが重層的で
静かに沁みこんでいくのをただ感じていた。
切ったら血が出るような ことば、そして音。
若松英輔さんのお話からは、私たちには血が流れている
ということを感じさせられた。心にも体にも。
だからこそ、人の身体を通じ、命を通して、
太古の昔から伝わることばがあるのだろう。
イエスが伝えようとしたことば、
そしてその温度や風に思いを馳せた。
イエスは、「場所をもたない人」だったという。
みずから出向いていき、ことばを伝えた。
大勢の人の前で話すことは、極、稀だった。
「今こうして僕たちはここのお寺に集まって
この場を共有していますね。でも、どうしても
ここに来れない人が必ずいるのです。たとえば
病でベットから起き上がれない人、遠くにいる人、
歩くことが出来ない人。イエスは、そうした人に
向けてみずから出向いていったのです。」
なるほどと思う。
「場」について考える。
Bach, Matthäus-Passion BWV 244. Herreweghe
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=LIR1sbvQKUg&w=560&h=315]
若松英輔さんのお話をお聞きして、
マタイ受難曲をあらためて聞きたい気持ちになった。
福音書も、読み直してみたい。
今日の言葉*
「私たちは日々うまれる膨大な要素を
内側に格納している。
言葉という道具や心を酷使し、
それでもうまく整理されなかったものたちは
その格納庫の床に無造作に散らばる。
その散らばったピースだけで
一枚の絵を作れないだろうか」
小林史子