さくらが満開になると、大抵雨が降り、肌寒くなる。散ってしまわぬかと、毎年心配し、雨があがって日がさすと、枝に残ったさくらに「がんばったね」と心のなかで声をかけ、足もとを舞う花びらにも「がんばったね」と声をかける。もっとも、さくらは、がんばってはいないのだろうけれど。
魚は、切られる時に痛みを感じているという研究結果があるらしい。それを読んだとき、「それはそうだろう」という気持ちと、「本当に??やっぱりそうなのか!」という気持ちの、半分半分だった。はて、生きものは、みな痛みを感じるのだろうか。植物に痛みはあるのだろうか。
花びらが花から離れるとき、ほんのわずかな痛みを感じているのだろうか。そういえば、樹木は、地中に這う根で、お互いにコミニュケーションをとっているというのを聞いたことがある。衝撃を受けた。動物よりも、もっと「群れ」としての生命体、命のつながり、「自己」があるのかもしれない。
そんな私の取るに足らない思考をかき消すように目の前のさくらは、勢いよく散った。光が差しているとき、さくらは信じられないほど輝く。花びらが光を吸いこみ、反射し、光そのものになる。さくらは、咲きはじめも、満開のときも美しいけれど、散るときも、尚、美しい。散り際の潔さは、ほかのどの花よりも、世界で一番なのではないか。散る姿をこれほど見せられ、そして、魅せられることは、他ではないかもしれない。私にとって、さくらは、「生」というよりは、「死」を想起させる花だ。破れそうな繊細な花びらが、地面をほんのりピンク色に染め、風に舞うとき、なぜこれほどまでに、心を奪われるのだろう。自分が生きているからなのだろうか、そういう自分も、いつか死ぬからなのだろうか。
“春風の花を散らすと見る夢は
覚めても胸のさはぐなりけり”
(西行)
「ママ、見て!さくらも横断歩道渡ってるよ」
「わぁ!さくらが雪みたいだね」
4歳になる娘がキラキラした目で、この世界を発見し、嬉しそうに話す。やわらかな小さな手はあたたかい。本当だねと、顔を見合わせ、ギュッと手を握りかえす。
2月に生まれた娘と見る桜は、格別だ。生まれたばかりのとき、歩きはじめたとき、イヤイヤしはじめたとき、たくさんお話しするとき。どの年も愛おしく、成長は著しい。どんどん、どんどん、大きくなっていく。3才になるまでは、必死だった。4才になってから、やっと母に少しなれたかもしれないという感覚が芽生えた。子どもと一緒に、母としてやっと4才なのだ。よくがんばってきたね。
この先こうして、この子と何度さくらを見るのだろう。そう思うと、たまらなくなって、また手をギュッと握る。サラサラの髪を撫でる。キラキラした目を見つめる。
年度末最後の保育園。よく遊んでくれたお姉さんたちも卒園。担任の先生も代わる。「あまちゃん、先生、代わるね。お姉さんたち、小学生になるね。さびしい?」と聞くと、「さびしいよぅ~。泣いちゃうくらいさびしい」と言っていた。
最終日。
一年お世話になりました!とご挨拶して、顔を上げると、先生、涙目だった。私もウルウルしてしまう。先生は、修道女のような、菩薩のような慈愛に満ちた方で、いつもその微笑みとやさしさに癒されてきた一年だった。4月からは坊やの担任の先生になることに!嬉しい。
「卒園するお姉さんたちに挨拶してくる!」と、元気に踵を返したあまちゃんは、しばらくしてさっぱりとした笑顔で帰ってきた。
サヨナラできたね。
“コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ”
かあさんは、サヨナラがいつも苦手。卒園式なんて、想像妊娠ならぬ、想像号泣できる。花嫁の手紙も、もう絶対無理。旅立ちの免疫力つけるために、いつかこの子たちも、旅立つんだと思って、毎日接している。
さくらが散り、青々とした葉がすぐにもりもりと生えてくる。別れと出会いの季節。春はもう夏に向かって駆け抜ける。
今日の言葉*
“ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と”
茨木のり子