時の吹き溜まり

“世界は「私」を超えたところで動いている。このことをいち早く「あきらめ」たものが、時間の主宰者になる。なんとかしようとしなくていい。自分の思うようにならなくていい。そこに「聴く耳」が開く。時間が流れ出す。

(森田真生)”

見たことのない花が咲いていた。手のひらを大きく広げてもまだ裾がはみ出てしまうような大きな白い花。それは、なんてことのない道にあまりに堂々と唐突に咲いていて、私は少しドギマギしてしまった。その花をしばし眺めていたら、森田さんのことばがふと浮かんだ。

時間の主宰者。

この花はそれを体現していた。「ジタバタしても仕方がないのよ。あきらめなさい。」と言わんばかりだった。時間というのは、過去から未来へ線的につながっているように思っているけれど、実のところそれは錯覚であり、人間の意識や記憶が補って作り上げているものではないかと感じることがある。風はあちらからこちらへ吹くだけではない。下から上へ巻き上げるように吹く風もあれば、頬をなでるようなやさしい風もある。あらゆる方向と早さで、自由に、空間をなでたり、かきまぜたりする。風には吹き溜まりもある。音楽、殊にアンサンブルをしていて、時の吹き溜まりのようなものを感じるときが稀にある。時間の流れというのは、本来、人によって違うけれども、拍をとって、音楽の求めているかたちに、みなでそろえて、音と時を練っていく。そうすると、稀に、ふわりと、「どこにもいかない時」がどこからともなく訪れることがある。訪れるというと、あちらからこちらへ来ると印象があるけれども、この時の吹き溜まりは、そこに浮かぶ時空間が立ち現れる感じなのだ。その状態になったときは、次の音がどのタイミングで、どういう風に出したらよいのか、不思議なくらいわかる。そしてそれは、いくつもあるわけではなく、必ず決定的なひとつなのだ。指揮の山田和樹さんがいつだったかリハーサルのときに「テンポというのは、ひとつしかない」と言っていて、そのときは俄かにはわからなかったけれど、いまはあのときよりその実感がある。普段は、予測して計算して次の音を出す。しかし、いわばこのフロー状態のときは、あちらのほうから、ここだよここだよと、どんどん指し示してくれる。それは線的というより、空間そのものであり、どこからともなく湧きおこり、極度に凝縮する「今」の連続なのだ。

“「聴く耳」が開き、時間が流れ出す”

本当に素晴らしい演奏家は、この耳が常に圧倒的に開かれていて、「どこにもいかない時」の手綱をキュッと手元で離さずに、音自体、空間自体は、どこまでも自由に遊ばせることができるのではないだろうか。人間はいくらでも自分の都合のよいように、世界を感じ、世界をつくっている。聞いているようで全てを聞いているわけではない。見ているようで見ていない。町を歩いていても、こんなところにこんなのあったかな??と、古ぼけた看板に気づき驚くことがある。世界をきりとって、つなぎあわせている。昨日から今日をつなぎあわせている。それが人間というもの強みでもあり弱みでもある。でも本当は“世界はわたしを超えたところで動いていて”、存在している。その世界の一部である「わたし」が、そのことをあきらめ、圧倒的に開かれているとき、その世界にふれることができる。時の吹き溜まりには、たくさんの無限の時が浮かんで集まっている。生きては死んでいる。生死が分けられず、ひとくくりのただの一瞬で、立ち現れては消えていく。

ひらひらとした大きな白い花は、あきらめて、ただそこにいて、その世界そのものになっていた。美しかった。

今日の言葉*
「ひとは、知っているものをもう、信じることができない。ひとは、知り得ないと、本当に感じているものだけを信じることができる。だから、愛する者を知り尽そうとしてはならない。自分を、いたずらに掘り下げてもいけない。わたしは、わたしを知らない。だからわたしは、わたしを信じることができる。」

若松英輔


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