水辺

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生徒さんたちの顔が、何か新しい感覚を掴んでパアッと明るくなるときがあり、それに遭遇できると、とても嬉しい。少しだけ歩んできた道が長い私たちは、こんな道もあるよと言ったり、足元を照らすことしかできない。どんな小さなことでも、自らが感じた発見や喜びは、強く、ロウソクの芯に火がつくような出来事。日々レッスンしていて「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」という諺が身に染みてくる。どうすれば、この目の前の子が、前に進めるのだろう、今どの水辺に連れていけばよいのだろう、盲点はどこだろうと、毎回毎回新しい気持ちでスイッチを探す。自分も沢山の先生にレッスンを受けてきて、いろんな教え方があったなぁと懐かしく感じる。ドイツで出会った師匠は、ものすごい毒舌だった。笑。

でもそれが、嫌味がなくてカラリとしていて、すごくよく切れる刃でスパっと切られる感じだった。家に帰ってから「お?切れている…アイタタタ」と気づくくらいだった(それは遅い)。でもこういことは、結構大事で、その時は分からなくても時間が経って「あぁ、あの時先生が言いたかったのはこういうことだったのか」と、ジンワリくるのが、本物のことばや教えなのだろうなと思う。今でも遠赤外線のようにジンワリと効いている。とにかく先生の演奏も音も大好きで、少しでも近づきたかった。先生元気かなお会いしたい。人生で、師匠に出会えることは何度とないもので、そういう存在があるというのは、なんてありがたいのだろう。

狂言のワークショップに参加して驚いた。狂言では、所謂「型」があり、たとえば腹がたっているという状況を表現するには、それ相応の身体の動かし方があり、本人は、そこに感情を入れず、心も動かさなくてよいのだという。身体をそれ相応の所作で動かし「はらたちやはらたちや!」と腹の底から声を出し、ドンドン!!と足を踏み鳴らす。そして、そのあと、「スッ」と戻る。ただそれだけなのだ。それを繰り返していくうちに、「腹たちや!」の身体になり、「腹たちや!」そのものになってくる。あーなんて面白いのでしょう。たまらない。

 はて、私たちが楽器をもって演奏する時にはどうなのだろう。狂言的な守破離ももうすこし必要なのかもしれないな。レッスンでは、いつも、心を掘り起こし、耕して、熱を加えること話すし、そのスイッチを開く。昨日も、はじめは音符をただ弾いているという状態だったけれど、少しずつ熱を加えて、息吹を与えて、料理しているうちに、紙の上の音が、空間のなかで生き生きと踊り出した。料理と一緒で、レンジでチンするのではなく「今、ここ」に生まれるものにひたすら耳を開く。心が火種。生徒さんが何より楽しそうだった。モティーフを丁寧に受け渡し、反応しあい、エネルギーをめぐらせ、音で会話し、アンサンブルを練っていく喜びは、一度覚えたらやめられない。音が生き物のように、動き出す。なんで音楽を続けているかって、ただやめられないからだけなのではないかなと思う。一度でもアンサンブルや音楽で、心の奥底が震え、身体が芯から喜ぶ体験をしてしまったら、やめられない。そのやめられない楽しさを、一瞬でも味わってほしいといつも思う。
 今日の言葉*

「恥ずかしさの度合いがものすごく強い人というのは、いい俳優ですね。恥ずかしくない人はダメです。つまり恥ずかしさのハードルが高い、その高いハードルを越えなくてはいけないということで、その人は自問自答して、超えるために必死になる。そういう人はいい役者ですね。」

柄本明 「絶望」の授業


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