村井先生

村井先生

もう一度お会いできると
思い込んでいました。

寂しいです。

先生の音色を聞いた時
本当にびっくりしました。

なぜか、松尾芭蕉が
ポッと浮かびました。

これは……これが…きっと
「侘び寂び」の境地なんだ…

決して着飾ることなく、
等身大で、誠実で素朴で、
それでいていつもウィットに
富んでいて、どこかにすこし
毒もあって、面白くて。
さびしくて、あたたかくて、
生きていて。

ドイツで習っていた師匠に
こう言われたことがあるんです。

「いいか、サチコ。
いい演奏家というのは、
決して利己的(egoistisch)では
ない。
とても個人的(persönlich)なんだ」

この言葉が、ずっと長いこと
心に引っかかっていて、
いつも問いかけてきていました。

利己的と個人的のちがいは
なんだろう?

そういう演奏をしている人は、
いるだろうか?
自分の音色には、エゴが
入ってないだろうか?

2017年。
ブラームスの五重奏で、
大変幸運にも先生とお会いして、
リハーサルではじめて
その音を聞いた時、
わたしはガーン!と
ショックを受けました。

その音は、
いままでふれてきた
音の世界とは、
ちがう場所にあったからです。

エゴとは全く無縁の世界。
必要のないものを
削いで削いで削いでいった世界。

先生の音色は、
長い問いかけの、
答えそのものでした。

齷齪しながら
汗かきながら
ついてゆくのが必死だけれど、
先生は音で全てを導いて
こっちだよこっちだよと、
手招きしてくれるようでした。

ちがう場所と思ったけれど、
実はその世界とは本当は
昔からつながっていて、
それを隔てていたのは
まさにエゴの壁だったのかも
しれません。

仏教でいう
「小我」と「真我」
でしょうか?

「我」とはなんぞや?と
考えていたときに出会った
岡潔のいろんな文章にも、
ガーンとショックを受けました。

「人は普通自分のからだ、
自分の感情、自分の意欲を
自分と思っている。
これを仏教では小我という。
ごく小さな自分という意味である

欧米人は自分とは
小我のことだとしか思えない。
それで個人といえば
小我の意味である。

ところが仏教は、
小我は迷いであって
真我が自分だと教えている。
真我とは本当の自分である。」

「芭蕉は真我の人だったのである。
真我の人にとっては
自然も人の世もすべて
自分の心の中にある。
他は非自非他といって、
知らないが故に
懐かしいのである。

芭蕉は心の中を
楽しく旅したのであった。」

(岡潔)

わたしの師匠は
西洋人だったけれど笑、
先生の言わんとしていたことは
きっと真我だと思います。
師匠もそういう演奏でしたから。

村井先生もまさに
音で心の中を
軽やかに旅して
おられるようでした。

その音色は
木枯らしのよう
散りゆく桜のよう
陽だまりのよう、
夜空のようでした。

宇宙でした。

たった一度でしたが、
こんなにも心に深く残る
たからものの時間でした。

連れてゆくのが大変でしたが、
こどもたちと最後の
ご挨拶ができて、
すごくよかったです。。。

こどもが、不思議そうに
ジーっと先生のお顔を見て、
「あれは石像なの?」
と、コソコソ話してきて
ごめんなさい笑。

なんて美しくおだやかな
お顔でいらしたか。

子の無邪気さに救われて
そんなに泣かずに
きちんとお別れできました。

天国でもきっと
クラリネットを
吹かれるのかしら。

先生、本当に
ありがとうございました。


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