音語り実験工房終わりました!

音語り 実験工房vol.1
〜村上淳一郎さんをお迎えして〜

7/3-5まで3日間、朝から晩まで、ひたすら、音楽に浸かった時間。それは想像以上に、豊かで楽しくて喜びと幸せに満ちていた時間だった。ブラームスでは、人間の感情や葛藤、憧れと、宇宙や天からの視点のような冒頭のモチーフとの対比を知り、ふるえた。モーツァルトのディヴェルティメントでは、はじめの4小節だけに、何十分もかけて、「どうしたらこの音は活きるだろう?」と、みなで研究した。時にみなでじっと沈黙する。ポツリとだれかがアイディアを言う。そしてまただれかが話す。何度も試してみる。また、考える。弾いてみる。そうやって、時間を飴のように練り上げていき、音が変化して、少しずつ生命の色と活気で輝いてくる。同時に弾く人も、聞く人もみな表情が変わってくる。音楽は時間芸術だ、などと言うけれど、こういう豊かな時間を紡ぐからこそ、そういう土台があってこそ、それを可能にするはずであって、わたしは、そのことをしばらく、忘れていたなぁと愕然とした。

本番を敢えて設けず、完成もせず、未完成のまま、終わる。終わるというより、ここからはじまるのかもしれない。何のために音楽を奏でているのか?は、つまるところ、どう生きているか、どう生きるかにつながっている。

2日目の夜は、こどもたちのために、早めに帰らせてもらった。初日だけでもおなかいっぱい、その日も朝から、心と体が喜びで満たされていた帰り道。夕空にふと見惚れた。昼から夜へと移り変わってゆく空の色、におい。星と月が少しずつ光りはじめている。家路を急ぐ人々も、ひとつの絵のなかのエレメントに見えた。美しいなぁ、と心から感じた。世界のなかに、自分がとけているのを感じた。天と地があり、街があり、そのなかで、人が生きている。そうして、そのなかのひとりの私が、音楽に出会い、人に出会い、生きている。空をこうしてゆっくり眺めることも、忘れていた。空や星や雲はいつもそこにあるのに。

日々何かに追われて、見ていない、感じていないのは、わたしの方だった。世界は、音楽は、いつでも、手を広げて開かれるのを待っている。大きい大きいものに、包まれて生きている。今回の音語りで紡いだ時間。それは特別だったけれど、本当は特別ではなくて、気づけばすぐそこにある美しさや喜びなのだろう。

音楽を続けていて救われるのは、どんなときも、音楽はそばにいてくれる、ということだった。そしてそれを自分で奏でられるという喜びだ。苦しみのなかにいるときも、耐えられないかなしみのなかにいるときも、心が踊るようなときも、幸せで爆発しそうなときも。音楽は、心とともに変化し、時に寄り添い、そっと手をふれてくれ、時に両手で熱く抱きしめてくれる。一緒にダンスしてくれたり、祝福してくれることもある。音楽に出会えて、そして、音楽を通して、人と出会えてよかったなぁとつくづく思う。

ブラームスのソナタを聞いた後、「今まで何をやってきたんだろう。なんて薄っぺらく弾いていたんだろう。もうどうしたら良いのか・・・でも、今からでも遅くない!少しでも近づきたい!音楽にもっと真摯に向き合いたい!そう思いました!」とあふれるように話してくださる方がいた。他にも、初めて来てくださった方が「すごくしあわせな時間だった。不思議なことに、聞いているだけなのに、仲間になっていく感覚があった」と話してくださった。いろんな垣根を取っ払いたいという気持ちがあって、音語りをはじめた。弾き手と聞き手という境界、舞台と客席という隔たり。いろんなものを壊して、とかして、広げたかった。だからこそ、嬉しい言葉だった。もちろん、村上さんの人間性と音楽性の力が特大だからこそ、できた場だった。あんなふうにはなかなかなれないけれど笑、太陽に照らされるように、音と言葉と、そして沈黙により、それぞれの心が、少しずつ広がっていくのを感じた。

cultureの語源は、cultivate、耕す。文化は、みなで、心を耕していくものなのではないか。今回、耕せたこの土に、それぞれが種を蒔き、育てて、そうして、また持ち寄って、集まりたい。終わりでなくて、はじまりだ。いつか大きな花が咲くとよいな。

この企画に、ご参加くださったみなさま、ご協力くださったみなさま、素晴らしい場を作ってくださった澤田写真館さま、本当にありがとうございました!!心よりの感謝。

ご紹介した書籍。素晴らしい本です!

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